I wonder what's goin' on.(決別宣言)

カレンダーの上では既に今年に入っているが、九星気学の上では2月3日からが新年である。
今年は僕は変化の多い年になりそうである。
そんな事もあってか、最近、自分の進路というか行く末というか、これからの後半生をどう生きて行こうかという事に関して黙考せざるを得ないような感じになっている。
去年までは、別にそんなに深く考えてなくて、楽しければいいやって感じだったんだけどね。
もう既にそんな幼稚な事をいっている段階ではなくなってきたと感じている。
人生の後半戦やゴール設定、それをいかに達成させるかということを真剣に考えなければならないのだ。
そういう年齢でもある。


ある人生の大先輩にアドバイスを受けた。
人生はある程度、タイミングタイミングで「利食って」行かないといけない。
社会貢献や自分の属する会社への貢献を考えることも必要だが社会はそう甘くない。
そういった貢献を尽くした上で、結局、何の見返りも得られなかった人は大勢いるよ、と。


いや、そういった人も社会や組織に、いわば、他者への貢献に人生を尽くして終われればそれはそれでその人にとって人生のゴールなんだよ、という言い方もあるのはわかる。
だが、僕は違う。エゴイストに聞こえるかもしれないが、僕はちゃんと見返りが欲しい人である。


いや、僕は既に人生にてそういう経験をしているのだ。
あるベンチャー企業で、ちっちゃな企業で、会社の為に会社が大きくなる事を夢見て一生懸命がんばった20代もあった。
しかし、その会社は悲惨な最後に終わってしまった。
自分が「利食う」タイミングはいくつもあったかもしれないが、結局会社のために尽くして、自分には何も残らなかった。
あの頃は、自分の人生の成功と会社の成功を冷静に分けて考えられなかったという事もある。


逆にあるベンチャー企業がちゃんと大きくなった、成功例(ヒント:ヒルズ)の会社にいた事もある。
しかし、一見、その会社は社会的に成功していたのだが、個人に残ったのは、その大きくなった会社に所属しているという、なんとも恥ずかしい名誉感と、その成長に貢献したのだという、心の内なる達成感だけしか無いという「大勢」の人を見てきた。
それら大勢の人への見返りというのも、やはり無かった。
結局見返りがあったのは、当たり前であるが、創業した一部の人間の間だけであり、その他大勢の人は、その会社に寄生して生きるしかないというか、隷属してしまわざるを得ないような状態になってしまっていた。


そして現在の会社に至るのだが、やはり人生は難しい。
そういった循環するスキームから抜け出たいと思い始めから参加した会社なのだが、結局は同じになりそうである。
この会社を大きくする使命があるのはわかっているが、それによって自分が得られる人生の見返りがやっぱり見いだせないのだ。
会社を大きくするというカタルシスはあるかもしれないがそれだけである。
何の事はない、本当の意味ではない「自分の」会社を大きくする、というのは所詮そんなものなのかもしれない。


結局は自分で何かを始めるしか無いのかもしれない。
もしくは自分で何かを始めるところに本当の意味で参加するということ。
そのときのポジショニングは大事である。(肩書きのことではないよ、肩書きなんて意味ない)
とどのつまりは、今回も僕はポジショニングを誤っていたのかもしれない。


今年はリスクを冒して何かを始める年にしよう。
自分の後半戦勝ち取るための礎になるように。
今の仕事は生活を維持するためには、私も家族があるので必要ではあるが、未来につながるようなものではないと今は断言できるような感じになっている。
また、やりなおしではあるが、新しい何かを探す時期にまた来ているのだ。
それは間違いないだろう。